[エッセイ]電車内における人間の本質について

人間の本性が最も露見する場所は、朝の電車内であると思う。

 

此処は恐ろしい空間だ。

誰もが自分本位になる。

誰かの苛立ちがさらに苛立ちを呼び、厭な空気が車内に充満している。

自分のことだけを考え、どんなにアナウンスや掲示板で呼びかけようとも我先にと電車に乗り込み、我先にと電車を降りる。

座りたい、眠りたい、行きたくない、帰りたい、

と様々な欲望をぼんやりとした頭の中に抱え込み、誰しもがこの上なく不機嫌である。

 

細い身のどこにこんな力があったのだろうと不思議に思うほど、ぐいぐいと躰をねじり込んで押し入ってくる若い女。

ドアに手を付き、腕をつっぱって、僅かなパーソナルスペースを守ることに必死な男。

一ミリも躰を動かそうとせず、鋼鉄の壁に徹する無表情のおじ様。

どんなに奥の人が降りようとしていても、ドアの脇の銀の手すりにしがみついて決して降りようとしない頑ななおば様。

こんな猛者がうじゃうじゃいる。

 

混雑した車内ではこれでもかというほど人間と密着する。

起き抜けの頭はまだ若干混乱しているのか、文庫本も広げられないほどの混雑の中で私は

とりあえず近くの人の耳毛や、首筋の髭の剃り残しなんかを、まったく興味もないのについつい観察してしまう。

同じ漢字を何度も繰り返し書いているうちに、あれ、こんな漢字だったっけとゲシュタルト崩壊を起こすのと同じく、

あまりにじっくり間近で人体を見つめていると、耳ってこんな形だっけ、皮膚には無数の穴が空いているのか、人間の身体ってこんなだっけ、と、だんだん奇妙な気持ちになってくる。

数多くの人間が一斉に塊となって運ばれていく電車という乗り物は、

こうして少しずつ人を狂わせていく気がする。

 

中学時代、電車通学を始めたばかりの頃、

私は電車内にて女性を本気で狂わせたことがあった。

春で、乗車率200%の車内だった。

 

鞄が足元に落ちてしまい、私は焦って腰を屈めて拾おうとしまったのだが、それがいけなかった。

未熟で浅はかだった。

混雑した車内で、空いた私のスペースには人が覆いかぶさり、

次の瞬間にはもう、姿勢を元の位置へ戻すことはできなくなってしまったのだ。

私は腰を折り曲げたままの恰好でいることを与儀なくされた。

 

すると、頭の上から女の人の悲鳴にも近い声が響いた。

 

「かゆい!」

 

ぎょっとして目線だけ上にあげると、

彼女は私を見ている。というか、歌舞伎のようなすさまじい形相で睨んでいる。

 

「髪の毛」

彼女は泣きそうに声を震わせている。

見ると、二つに結わいた私の長い髪の毛が、丁度彼女の脛のあたりで電車の動きに合わせてぷらぷらと揺れていた。

 

「あぁ、すみません」

 

私はなんとかして髪の毛を抑えようとした。

が、手も出せない。

腰もあげられない。

 

もぞもぞ動こうとするとさらにかゆいらしく、

かゆい!ともう一段声を高くして叫ぶ。

しんとした車内の中で、視線が一気に集中するのが背中越しにわかった。

 

彼女は狂ったように叫んだ。

かゆい!かゆい!かゆい!

 

普通の会社員風の女性だ。

化粧もばっちり施され、ヘアスタイルも完璧な女性。

それが、電車内でこれでもかという程叫んでいるという異常事態。

無様な恰好の私。揺れるふたつの髪の毛。

 

次の到着駅まではあと三駅ある……

嗚呼、この電車、特急だ……

この時ほど絶望したことは後にも先にもない。

 

私は文字通り腰を低くして必至に謝り、その間も彼女はかゆみを訴える。

理性を失わせ、狂わせていく電車に対して烈しい恐怖を覚えた出来事であった。