[小説]アンの薬壜

2017年2月7日

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あぁ、膝小僧に水が溜まっちまったと昔の芸者風に忌々しく云うのは、今居る中では一番の年輩である小暮花。
畳の敷かれた控室でスカートを捲し上げて膝を立て、ジャガイモみたいな骨っぽい膝小僧を大事そうに撫でている。

「花さん、今日はよしたほうがいいですよ。また倒れますよ。」

「いや、出る。」

一度云うと聞かない人だ。何度も制止したが、やはりやめない。
今日からあと一週間、この川崎公演があって、そのあとは浅草、と次が控えている。クリスマス公演だから新曲を、というので、レッスンもかなりの時間を使ってきた。だからこそ膝に水がたまったのだが、出たいという気持ちが強いのも判る。

私は十二時の出番で最初に踊る衣装に着替えた。何枚も鮮やかな色が重なった、柔らかいパニエ。その下にはガードルとティーバッグ、そして黒のコルセット。どうせ一踊りしたらすべて、脱いでしまうのだけれど。

劇場がないときにはメンズ専用アロマエステで働いたり、時々アダルトビデオなんかにも出たりする。といってもイメージビデオみたいなものだから、劇場とやっていることはほとんど変わらない。ただベッドの上で一枚ずつ焦らしながら服を脱いでいって、雌豹と称される挑発的な目をして、それで終わりだ。相手はいないし、私ひとりのとろとろした映像が淡々と続く。

幼い頃バレエを習わせてくれたのは母親で、父親は反対していた。ダンスとかそういう世俗的なものが好きではなかったみたいで、幼い私には絵画教室に行くよう云っていた。裕福というわけでもなく、ひとつの習い事で精一杯だったので、最終的にはどちらに行くか私自身で判断することになったのだが、私は友達が持っていたあのピンク色のトウシューズが履いてみたいという、単純な気持ちでバレエを選んだ。父親は不服そうな、というよりも子供みたいに寂しそうな顔をしてからそっぽ向き、そうか、と云った。両親が離婚し、どちらへついていくかを決めたときも、父親は同じような顔で、そうか、と云って去っていった。

思えば、バレエをしていなければダンサーを目指すことはなかっただろうし、そうなるとストリップの道を選ぶこともなかったのかもしれない。大人しく家に籠って絵を描き、出来た絵を父親に見せて喜ばせるような子供であれば、なにかが違ったのかもしれない。後悔しているわけではなく、今はこの仕事に誇りを持ってやっているけれど、そういうことは時々考えてしまう。なにもかも運命だなぁ、と一人で呟いて煙草の煙を細く吐き出す。

一度この世界から足を遠ざけた。でも結局戻ってきてしまう。
また踊りたい。世の中や人生にふと退屈した瞬間、禁煙していたのに飲み会に行ったらみんな吸っていたので一本だけ吸っちゃった、みたいなちょっとした罪悪感と、やっぱり私はこの道でできる限りやっていく、という決意を伴った大きな気持ちで此処に戻ってきたのだった。

「アンちゃん、また踊ってるんだってね。」

カウンターに座った途端、ママが奥から出てきて、腕組みしながら笑った。
道玄坂を脇に逸れた雑居ビル内のスナックで、私が渋谷で踊っていたときによく通っていた店だった。今日は出番が早く終わったので、こうして話をする為にわざわざ電車をひとつ乗り替えてきた。独り暮らしのつめたい家にはなるべく帰りたくない。

「うん、結局、私はステージの上がいいみたい。」

「OLになるんだ、オフィスでばりばり働くんだなんて、意気込んでいたのは誰だったかしら。」

睨む真似をして、壁に寄りかかったまま豪快に笑う。なんでも明るく笑い飛ばしてくれるから、私はママが好きだ。
酒も煙草もやる癖して不思議と透き通ったいい声をしており、おまけに節制なんてしなくても常に痩せているし、一度も焼いたことがない肌は二十代の私がうらやましく思う程に奇麗だ。ただ金髪で勝気な鋭い目にぐりぐりと濃いメイクをしているから、知り合いに連れられてはじめて会ったときはもう二度目はないと思うくらいに怖かった。その吸い込まれそうな黒い眼にすべてを見透かされてしまうような気がして。

私は突き出しの柿の種を食べながら、洗い物をするママの姿を目で追った。捲くったセーターが手首にむかって落ちてきた。身を乗り出して肘のあたりまで捲くり直してあげると、ありがとう、と目を柔らかく細めて笑った。

ふと、彼女が此処で倒れていたときのことを思い出した。もう二年前になる。私が渋谷の劇場で吐くほど踊り狂っていた頃。ママはママで狂っていた。

ママの好きなケンタッキーのチキンを買って店に向かったのは五時前。営業開始まであと一時間あったが、忘年会シーズンということもありいつ来ても満席で、なかなかしっかり話ができなかったから、久々に真面目な仕事の話でもしてママを独り占めしようと企んでいたのだ。

こっそり忍び込むように、音を立てず中に入る。小さい子のいたずらみたいな調子で、ママが驚く顔を想像しながらカウンターを覗き込んだ。

しかし、中は静かで、人の気配がない。電気もついていないので真っ暗だ。

「こんばんは……いないの?」

小さく声をかける。手探りで明かりをつけ、カウンターの奥に入っていくと、足元になにかが当たった。赤いヒールだった。

「あ、」

思わず口のなかで声が漏れた。そのヒールの先には、人形のように躰を反らして目を瞑るママの姿があった。
口から黄色い吐瀉物が流れ、手には空っぽの薬壜が握られていた。私はしゃがみこんでその白い顔を触った。蝋のように固く、ひんやりしていた。

驚いたけれど、今となっては懐かしい思い出だ。私はそのときの薬壜を今でも鞄に忍ばせており、辛いことや乗り切れそうにないことがあるとお守り代わりにこっそりそれを握りしめている。

客と恋仲になったという話は以前ママの口から聞いたことはあったが、一度きりで立ち消えになったので、それ以上なにもないのかと思っていた。しかし実際は既婚者であるその客とのことが原因で、相当悩んでいたようだ。まだ語りたくないみたいで、真相は謎のままだけれど、きっとそう。いつか粘って、聞き出してやろうと思っている。

私が一度ストリップを辞めたのも、当時の交際相手がこの仕事を嫌がったことがきっかけである。うるさいほっといてくれ、と普段の私なら云っているところだが、彼のことは本気だった。好かれたいという気持ちよりも、嫌われたくないという気持ちが強く、常に一言一言に怯えているような具合でよくない惚れ方をしていた。だからあっさり劇場を去って彼の紹介で中小企業の事務員になったのだ。あんな小太りのどこがよかったのか、今ではさっぱり思い出せないのだけど。

「アンちゃん、今は幸せなのね。」

「どうしてそう思うの?」

「前より元気そうよ。心の疲れがすっかりとれたみたいな顔してる。」

ママは私の隣に座り、自分で作った水割りを飲んだ。私もそれ欲しい、というと、自分で作んなさいよ、まだ営業時間外よ、と笑い、私の名前が書かれた焼酎壜を差しだした。

「そうなのかもしれない。彼と別れて本当の自分に戻れた気がする。楽になった。ご機嫌伺って会うのなんて、性に合わないし。」

そりゃそうよ。一緒にいて幸せな人を選ばないと。

ママはちょっとだけ寂しそうに眼を伏せる。私にではなく、自分自身に呟いたのかもしれない。深い声色だった。

時計の電池も切れて、有線もかかっていないので、店内はいつも静かだ。ビル下には環状線が通っているが、窓を閉め切るとクラクションが幽かに聞こえるだけである。エアコンもついておらず、いつまでも空気は冷たい。室内でも厚手のコートを着ている私に対して、ママはいつもの派手なピンクのスリップみたいなドレスである。二年前のまま。

「お客さん、来ないかしら。」

湿っぽい話になると、ママは決まって店の中を見渡して雰囲気を変えようとする。私も、そうね、と重たい扉に目を遣る。
もうお客さんが来ることはないのよ、とはもちろん云えなかった。ママにはいつまでも気が付かず、此処に留まって居てほしかった。

煙草に火をつけながら、今でも来てくれるのはアンちゃんだけよ、と云い、唇をゴムみたいに伸ばして二ッと笑った。当たり前じゃない、と私も笑い返した。

隣のビルの灯りが差し込んで、その明かりでぼんやりとママの顔が白く浮かび上がる。
時間がとまったように、というより時間に忘れられたように、むかしのままこの店は保たれていた。カウンターもキッチンの中の酒も、客席も。ただ、人の気配がないというだけで自然に朽ちていくもので、机はどこかべたついてきたし、カウンターの一部も腐りかけてきた。大勢の客が腰かけた椅子だって、赤いビロードの表面は埃で灰色になり、所々破けて黄色いスポンジとバネが飛び出している。

私は此処にママがいる限り足を運び続けようと思う。
此処がなければ、仕事に疲れたとき、辛くなったとき、何処へ身を置けばいいのか、誰に悩みをぶつければいいのか、判らないのだ。
いつまでも思い出さないでほしい。自分があのときどうなったのか。身も心も健康になってまた営業を再開したのだという夢を、ただただ、このまま見続けてほしい。

そろそろお料理の支度はじめようかしら。アルミの灰皿に火を押し付けて立ち上がり、鼻歌交じりにエプロンをつけながら、ママはカウンターの奥にすぅっと消えていった。

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Posted by ayapan