[小説]旅するブルー

IMG_5172ハロペリドール、デスパ、ハルシオン。
呪文みたい、と思いながら白い紙袋を開け、名前をいちいち口に出して手のひらにのせる。
粒の量を目で追って確認する。

いち、に、さん。

よし、だいじょうぶ。

これでもう寝られる。だいじょうぶ。

呼吸を整え、コップを握った。そして、息に合わせて瞼を閉じた。
今日も、長い夜がはじまる。

 

擦りガラスから差し込む月明かりに浮かぶ、ラムネみたいな薬。床はべたついていて、冷蔵庫の機械音だけが響く。料理をしない私にとって、キッチンは深夜のこの時間帯が一番なじみ深い。

薬を覗き込むと、またこの子たちの助けを借りないといけないのか、と厭にもなるけれど、この子たちがいないと私は人間らしく生きられない。唯一頼りになる存在だから仕方がない。

冷たい水道水ですべてを一気に流し込むと、食道を勢いよく通っていくのが判る。この瞬間はすっきりする。あぁこれで眠れる、という安心感が胃にすとんと落ちていく。

それでもすぐに眠気が訪れるわけではないから、私は汗の浸みこんだ万年床に滑り込んで、低い天井を見上げながら携帯を手にする。周辺が青白く光る。いつもの癖で、というか、薬を取り出すのと同じような自然な感覚で番号を押し、そっと耳に当てる。

ふんわりした色のない脳みそで、私は今日も彼に電話をかける。

瞼を閉じたまま。青い青い海を暗闇の向こうに思い描きながら。すっかり遠くなった彼の顔を思い浮かべる。

 

眠れないの、と湿っぽい声を出すと、彼はバイクを出してくれた。付き合って三か月目の夏だった。

「俺も寝られないから、海でも行くか」

横浜の自宅から、由比ガ浜までは四十分もかからない。しかも深夜となれば、昼間あれだけ混雑している江の島海岸通りもあっという間に通り抜けるだろう。名案だった。

けれど彼の提案はあまりに素晴らしすぎて、私は情けなく驚いたまま返事もできなかった。今から行くの、と間抜けな質問をしたが、彼はそれには何も答えずに、走ると寒いからちゃんと上着は着ろよ、と鍵を手に取った。

私は言われた通り、春に仕舞い忘れた厚手のパーカーを羽織った。彼はバイク用の薄い革ジャンを肩にかける。物音をたてないよう慎重に階段をくだり、人気のない駐車場に向かう。

ヘルメットを渡され、後ろにまたがる。革ジャンにしがみつくと滑らかでひんやりとしていた。住宅の灯りはそのほとんどが消えていて、静かにエンジンをかけて細道を走りだすと、なんだか悪いことをしているみたいにわくわくした。

 

夜の海は真っ黒で、昼間みるときみたいな青々しさはまったくなく、強烈な引力に飲み込まれそうだった。巨大な何かが口を開けているみたい。海というのは青いのだ、と頭でっかちに思っていたから、はじめて見た夜の海は戸惑うくらい恐ろしかった。

バイクを路上に停めて少し歩き、砂浜の上に忘れ物みたく置かれたベンチに腰掛ける。

月ってこんなに明るく輝いてるんだ、と初めて知った。暗い波に向かってふんわりと優しく、月の白い光がどこまでも敷かれている。砂浜と海の境目は、よく見えない。

「波の音、きもちいい」

私が呟くと、彼は満足気に頷き、「たぶんこれで眠れるよ」と正面を向いたまま云った。

それはどうか判らないけど、と笑いながら彼の肩にもたれかかると、たしかに深い眠りがやってきそうは気配がした。というか、もう既にここが夢の中なんじゃないかと思うくらいの浮遊感。ざぶん、と砂を引き込んでまた吐き出していく、反復運動。夢心地だった。

そのとき私は気づいた。

眠れないのではなく、常に私は夢と現の区別がつかないような朧な感覚の中で生きているのだ。
オン、オフ、みたいにはっきりと線が引けなくて、曖昧で、だから起きているときも起きている感覚はないし、寝るときも寝ている感覚はない。今は、現実に近い夢の中みたいだ。

このときの私はまだ、自分が眠れないということを気楽に考えていた。
けれど、翌日仕事があるのに明け方まで眠れなくて、早く寝ないとと思って焦ると余計眠れなくて、結局一睡もせずに職場へ向かうようになると、さすがに少し焦りがでてきた。常に眠ることだけを考えるようになった。家に帰って寝たい。だけど眠れない夜が怖い。夜が来ると焦る。不安になる。何故眠れないのか判らない。どうすべきなのか判らない。その混乱状態がしばらく続いた。

私が「眠れないんだよね」と他人事みたいに言うものだから、彼も当然軽く考えていた。夜泣きのひどい赤ん坊をあやす、くらいの感覚でバイクに乗せ、海へ連れていったのだ。眠れないなら電話して、と気安く云ってしまったのだ。

私は彼に甘えて、眠れない夜――それはつまり毎晩になるのだが――電話をした。

だんだん時間の見境がなくなって、二時だろうが三時だろうがかまわず連絡してしまうようになった。不機嫌な声をだされると、「私は眠れないんだから」と理不尽に怒り返した。眠れない私は可哀想で、辛い状況に立たされている私が正義だったのだ。あの頃は本気でそう思っていた。

別れ話をされたときも、やっぱり夢かうつつか判らない中で、あぁ、と呻ることしかできなかった。ぼんやりした頭は言葉を絞り出すことも不可能なくらいに疲弊していた。だって脳みそはずっと起きて、無意識に働いているのだから。疲れちゃっても仕方がない。

 

仕事もできなくなって、家からでられなくなり、ここ最近は、往診にやってくる精神科の先生に週一度会うことだけが私の予定である。一日中、むかしディズニーランドで買った黄色いブランケットにくるまって、自然な眠気がくるのを待っている。たまには歩いたり、運動して躰を疲れさせないと、眠れないですよ、と先生に言われても、動く気になんてこれっぽっちもなれない。日中動かないから眠れない、眠れなかったから日中動けない、私はこれを永遠に繰り返していくのか。

「先生、もっと薬がほしいです」

「どうしてもだめなときは、頓服を飲んで。少し大目に出しておくけど、ほんとにどうしてもっていうときだけだからね」

わかりましたぁ。

間延びした声をあげると、先生は困ったように目を伏せて処方箋を記載した。

「彼には電話してるの?」

「してますよ、毎晩」

あ、正しくは元彼ですけど、と付けたして、膝を抱える。昼間でも薄暗くて湿っぽくて、昨日食べたカップラーメンや菓子パンの袋がテーブルの上にそのまま残ってるような汚い部屋を見て、先生はなにを思うのだろう。はじめのうちは少し片付けて、座布団やスリッパを用意していたが、それも面倒でやらなくなった。

「彼とはなにを話しますか?」

「なにも」

先生は聞いたことをそのままカルテに書き込む。そうして幾つか話をすると、また来週、と十分もしないで帰っていった。

目を瞑って、その晩も頑張って眠るために一生懸命頭を軽くする。一生懸命眠ろうとするからいけないんだよな、と判っていてもやっぱり考えてしまう。

あの真っ黒な海を見たあとでも、やっぱり私の中で海は青々としているものだった。海を思い浮かべながら、限りなく青い世界を旅するイメージが、一番眠れる空想だ。ひらべったくなって、ふわふわと海原を滑る感覚。寄せては返す波の音。月の灯り。隣を見れば彼の顔。

私は目を閉じたまま、また携帯を手にとる。眠れなかったら電話をかけていいよ、というかつてのやさしい言葉だけをいつまでも胸に残した私は、流れるように番号を押す。数字をひとつずつ押すと、眠りに一歩ずつ近づいていくように感じる。

彼が連れていってくれた海。

あれがもう三年も前のことだと思うのが恐ろしい。現実を見ないようにする。今が何年で、何月で、どこに自分がいるのかなるべく考えないようにする。眠ることだけに集中する。

お掛けになった電話番号は。

この無機質な声を聞くたびに、夢と現の曖昧な境界が交わって、私のぼやけた意識は青い青い海の中にぽちゃん、と落ちていく。