[小説]声

IMG_5223 何故この家はこんなに寒々しく、恐ろしいのだろう。

子供時代から厭だった場所である。しかしもういい加減、十五年も経っているのだから平気だろうと思っていた。
やはり駄目だったようだ。むしろ年月を経て、より不快さが増した気がする。

門の両側には柱のように木瓜の木が生っている。長いこと水を張っていない苔むした池には、先日の長雨の名残が溜まっていて、その上を綿毛のように蚊柱が浮かんでいる。
よく祖母はここにしゃがんで、上部を切り取ったペットボトルの中に、割り箸でナメクジを集めていた。僕は縁側の大きな硝子窓越しにその様子を眺めていた。白髪の小さな頭が、降り注ぐ月灯りに濡れていた。

 

木戸の玄関を開けると古い家独特の黴の匂いがした。磨かれた革靴が口をあけた鯨のように雑然と並んでいる。三和土にあがると靴下の裏がひやりとした。

仕切りの障子を取り外した居間に、参列者たちが無理やり詰め込まれている。扇風機が二台首を回しているだけで、むせるような蒸し暑い部屋である。皆一様に下を向いたまま汗を拭っている。

「新ちゃん、久しぶり」

覚えのない中年の男性に声を掛けられて、僕は何も云わず小さく頭を下げた。ゴルフ焼けをした赤黒い顔は、誰かの結婚式の写真の中で見たことがあるような気もした。

「しばらく見ないうちに美男になったね。いやぁ、若い頃の康弘さんそっくりだ」

満足げに微笑むので、合わせて少し笑った。暑苦しい喪服姿で埋め尽くされ、他に空いているスペースもない。先に到着していた両親は前列に座っているし、そこまで人を掻き分けていくのも面倒なので、仕方なくそこに腰を下ろした。中年の男性は座布団の端を掴んで少し横にずれた。

 

祖母はダイニングキッチンで倒れていたらしい。

死後丸二日経っていた。
真夏なので腐っていてもおかしくないのだが、ちょうど冷蔵庫を開け放したままそこに倒れたので、冷気を浴びた上半身だけは幸い綺麗なままだったそうである。

僕はダイニングを思い出した。

祖母がつけた糠床のすえた匂い。
なにか零したのか、染みだらけでべた付いた床。
埃だらけの換気扇が、外壁伝いに伸びた蔦で引っかかりながら回る音。

傘のついた白熱灯の線を引くと、ライターをつけたような軽い音が数回して、部屋全体を薄ぼんやりと照らした。ステンレスの流し台には常に油と洗い物が溜まっていた。

あのダイニングの、背の低い冷蔵庫の前。

そうか、あそこで倒れたのか。

中学受験の勉強を理由に、此処には寄り付かなくなった。決して祖母が嫌いだったのではない。湿っぽくて、昼間でもどこか薄昏いこの家が嫌いだった。此処に来ると、決まって体調を崩した。そしていつも、妙な声が聞こえていた。

一人っ子の僕は、二階でひとり遊ぶことが多かった。
勿論この家にはゲーム機や流行のカードゲームがあるはずはなく、元々父の部屋だった二階の角部屋で、押入れから古いプラモデルやラジコンカーなどを取り出して遊んでいた。一階にいても、大人たちから学校の成績や友達のことを聞かれるばかりだし、僕は家に着くなりすぐにこの部屋へ避難していたのだ。

妙な声がするのは、夕方の五時きっかりだった。近くの公園から夕焼け小焼けが流れていたから間違いない。

葉の重なり合うようなささやかな声だ。押入れの向こうから、ふっと掠れた息遣いがして、僕が中を覗き込むと、どこからか声が響く。当時の僕よりも幼い声で、機嫌のよい乳児のようにも聞こえた。

毎度だったので仕舞いには慣れてしまったが、最初の頃は驚いて、すぐに一階へ駆け下りていった。祖母はシャツにびっしょりと汗をかいた僕を見ると、黄色い歯をみせて笑った。

「こわくないよ。大丈夫。なにも悪さはしないから」

確かに、悪さはしなかった。でも、ずっと声がする。何か言葉が聞こえるわけではないが、ひっそり、打ち明け話をしているようだ。歌うように朗らかである。

「最近棲みついたみたいでね」

祖母は、白く粉をふいた指先で蜜柑の皮を剥きながら、鼻歌を鳴らすように云った。

「悪い子たちじゃないよ、ただおしゃべりをしているだけ」

本当にそうだったのか。僕は少し納得がいかなかった。だけど、ひとりで暮らす祖母が嬉しそうにしているのだから、いいのかもしれないとも思った。

 

 

寺の坊主が、経を唱えている。参列者はコンベアで流れるように、ひとりひとり、棺に入った祖母の顔をちらっと眺めては、謝るように手を合わせる。

もうじき僕の番だ。焚かれた線香が行き場無く白く煙って、遺影が霞んで見える。祭壇に近づくと花の甘い匂いがする。葬式に来た、という気分が濃くなる。

僕は祖母の顔を見た。久々に会った祖母は真っ白に化粧されて、おかげで皺がよりくっきりと線を描いたように浮かんで、瞼まで皺だらけだった。口元は、何か云いたそうに僅かに開いていた。

 

ふっ。

 

そのとき。耳元で、息遣いがした。

途端に全身の血の気が引き、僕は呼吸を止めて硬くなった。

声がする。あのときと同じ、ひそやかな声だ。

周りの雑音を離すように耳を澄ますと、次第にはっきりと聞こえてきた。

僕ははっと気が付いた。

 

――喋っているのではない。笑っているのだ。

 

やはり、それは笑い声だった。
ひそひそと話しているように聞こえるけれど、それは確かに笑っていた。それも一人や二人でない。あのときよりも増えている。十人か、二十人か。とにかく大勢の笑い声がさざなみのように空気を掴んで揺らしている。

それは坊主が唱える経よりも大きくなっていく。僕が気付いてしまったからだろうか。鼓膜が破れそうだ。なのに、他の人は、坊主ですら、聞こえていないようである。何故、誰も判らないんだ。気づかないんだ。

悔しさと恐ろしさで涙が溢れた。崩れ落ちるように畳に膝をつき、棺の淵に手をついた。

「ばあちゃん、」

引き攣ったその顔を覗き込むと、笑い声は大きく膨らんだ。

僕は自分の声が大きくならないように注意しながら、静かに眠っている祖母にそっと声を掛けた。

 

「みんな愉しそうだよ」

 

 

 

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Posted by ayapan