[小説]哲学少女

IMG_5440 行儀悪く新聞紙を片手に開きながら、もう一方の手で食べようとして失敗した。
新聞に目を落としたまま、口を開けた間抜けな姿で、一瞬の間、時が止まった。

朝は少し早めに家を出て会社近くのカフェに立ち寄り、こうしてニュース記事を読みながら食事をするのが日課である。今日はたまたま油断してしまった。

僕の手に握られた、残りあとひと口というジャーマンドッグは、見事に指の隙間からソーセージだけを落としたことで、ただのパンの端になってしまった。
手と、ワイシャツの襟にはケチャップが血液みたいにべたりと染みつき、落ちたソーセージは切り落とした親指の様相で床に転がっている。残されたパンの切れ端を口に入れ、ケチャップを舌で舐めてから、僕は新聞を隣の空いた席に避難させた。

朝からシャツが血だらけだ。僕は開いた新聞を横目に見ながら、濡れた布巾で柔らかくシャツを拭った。

 

哲学少女のことを思い出したのは数十年ぶりである。

彼女は僕の幼馴染で、マンションの隣の部屋で暮らしていた同じ年の少女、名をさとこという。さと、の字は哲学の哲だった気もしたが、どうやら記憶違いだったようだ。

僕の両親が離婚し、引っ越すことになるまで交流があった。高校にあがる頃にはお互い妙に恥ずかしがってほとんど関わりはなかったが、幼い頃はよく遊んだ。両親が共働きでかぎっ子だった僕は、学校から帰りランドセルを玄関に投げると、すぐに隣のチャイムを鳴らして彼女の家に向かった。遊んでいると三時丁度に彼女の祖母が出してくれる、焼きたてのレモンパイが好きだったのだ。

哲学少女、とは僕が心の中で思っていたあだ名だが、その由来は、彼女が哲学を愛するませた子供だったからである。父親が哲学者で、分厚い本も出したことがあると云っていたが、残念ながら世界各国で売れすぎて家には一冊もないので読ませてあげられないの、と彼女は眉を顰めて申し訳なさそうに付け加えた。

さと子はアイルランドのE・エレファントという哲学者のファンであると云い、よく彼の話を聞かせてくれた。

「彼のことを教えてあげる。エレファントは、落馬事故で歩けなくなったことをきっかけに、必要なものと不必要なものを考えるスペシャリストになろうと決心した偉大な哲学者なのよ。」

著書がほしいが、本国アイルランドでしか売っておらず、手に入らないのだと嘆く。僕は入道雲のようなメレンゲの浮かんだパイを齧り、赤茶色い絨毯の端をめくって手を拭いた。

「生きる上で必要なものって、なにか判る? よしくんは、なんだと思う?」

「なんだろう。家族かなぁ。」

「家族、そうね、それも必要。でも、もっと大切なものがあるわ。」

なに? と訊くと、彼女は急に立ち上がり、レモンパイのおかわりをもらってくると云い残してその場を去って行った。だいたいいつもここで話は立ち消えになり、結局なにが大切なのか、一度も教えてはもらえなかった。

エレファントはデカルトやニーチェといった有名な哲学者から、どうしてもあの境地には立ち入れないと恐れられ、影で政治を動かし、アイルランドの国王を凌ぐ地位と権力を持っていたという。彼女がクレヨンで描いた似顔絵を見たが、赤くカールした髪の毛の彼は貧相で気弱そうで、とてもではないが誰かから恐れられたり何かを動かす力を持った人間には見えなかった。

僕が漫画を読んでいる間、さと子はいつも音量を最小にしてエレクトーンを弾いていた。何度もつかえて、そのたびに気を取り直して仰々しく咳払いをし、レモンパイをひと口つまむのだけど、諦めずにきちんと最後まで弾いてのけた。

「この部屋は防音にしてもらったのだけど、エレクトーンの調子がおかしいから小さくしか弾けないの。」

ピアノよりも軽く、脳に直接突き刺さるような電子的な音が、僕は嫌いではなかった。話をせずにいつまでも聴いていたいと思った。流れるように上手に弾いてほしいなんてことは思わない、ただ隣の部屋から響いてくる祖母が使うミシンの錆びついた音だけでなく、空間に色を添える音がほしかったのだ。

「今弾いた曲、知っている?」

「ベートーベンの、月光?」

知らなかったが、床に開かれた楽譜に書かれているままを答えた。

「半分はあっていて、半分は違うわ。」

残念そうに肩を竦め、彼女は息をついた。「タイトルは当たり。でも作曲家は、わたしよ。」

そう云って深呼吸をし、もう一度鍵盤に指を落とす。誰かが水の中で死んだように、静かで深い恐怖を背負ったメロディが部屋を濃く充たした。僕は先ほどよりも真剣にその小さな指先を見つめた。鍵盤の黒い部分にはレモンパイのメレンゲが数箇所ついていて、柔らかく悲しい音に寄り添っていた。

 

中学生になると、僕が部活を始めたこともあり、それから彼女の祖母が亡くなったことも関係して、家に行くことはほとんどなくなった。それでも、同じクラスだったので話をすることはあった。男女ということを過剰に意識する時期ではあるので、親しげに会話することはなかったが、それがむしろクラスメイトからは長年連れ添った夫婦のように映ったようで、時々からかわれた。

さと子は顔の造作がしっかりしていて、二重の目が大きく、肌もすべすべと艶やかだった。クラスの女の子のほとんどは学校の化粧禁止が恨まれるほど目が黒豆のように小さくて、脂ぎった顔面には赤いニキビが幾つも点在していていたので、さと子は羨まれる存在だった。しかし、口を利くものはいなかった。

幼い頃は雪深いフィンランドに暮らしていたとか、五歳の頃に星のひとつを発見して自分の名前をつけたとか、ビートルズ全員のサインを持っているとか、そういったことを云うのが原因だ。クラスの人が云っているのを聞いた。

「あの人が云うこと、どうせ嘘ばっかりでしょう。」

女生徒たちが窓際に五、六人で固まって、嘘を吐く人なんて信用できないだの、頭がおかしいだの、一種の病気に違いないだの、口々に醜い顔を寄せ合って話していた。僕は黙ってそれを聞いていた。今更うそつきだのなんだの、そんな話は取るに足らないことだった。

別の高校に通うようになると、まるで関わりはなくなった。それでも、隣からドアの開閉音がし、エレクトーンの音が響くと安心した。僕と交流がなくても変わりなく日常を続けていく彼女の中には、まだエレファントという謎の哲学者の言葉が巡り、作曲したというあの音楽が鳴っているといいなと思った。

 

シャツのケチャップをひとまず処理し、一息ついて再び新聞に目を落とす。
一面から数枚めくった先に、懐かしい顔があった。僕は紙をピンと張って、枠で囲われた小さな記事を読む。

「大田区 新島聡子(にいじまさとこ)容疑者(32) 連続不審火・放火殺人事件関与の疑いで逮捕。容疑者は容疑を否定しており・・・・・・」

むかしと変わらない、まっすぐに人を見つめる目が白黒の新聞紙に浮かんでいる。真面目で神経質そうで、真実しか口にしていないというような、嘘っぽいくらいのしっかりとした目。

警察は信じてくれるのだろうか、彼女の言い分を。それとも真実を冷静に見抜いてしまうのだろうか。

新聞を丸めて鞄に仕舞い、広い窓の外に目をやる。
黄色い朝の日差しは今日のはじまりを快活に告げている。危うく吸い込まれそうなくらいのくっきりとした冬晴れだ。誰かが一人立ち上がると、急に思い出したように慌ただしくなり、皆、コートを着込んで外へ出ていく。いってらっしゃいませ、と自動ドアの前で掃き掃除をする店員がいい声を投げてくれる。

腕時計を覗くと、出社時間まであと数十分あったが、どうにも行きたくなくなった。仕事などどうでもよかった。いっそのこと、今日付けで辞めてしまっても構わなかった。

そんなことより、久しぶりの再会に驚いてソーセージを落としたことを、今すぐ彼女に伝えたいと思った。

 

 

小説

Posted by ayapan