[小説]今年の桜はあなたとみたい

IMG_6047 立ち上がりながら隣の様子を横目で確認して、私はのんびりと帰りの支度をはじめた。

何度もデスクを整頓し、ポーチや手帳をかばんに仕舞い、忘れ物がないか、引き出しの中までしつこく確かめる。

仕事はあれほどテキパキしているのに、帰り支度は遅いんだね、と指摘されない程度にわざとらしくなく。

隣の席の彼が立ち上がって、「よし、帰ろ」と独り言を言うタイミングになって、私はようやくタイムカードを押しに行く。すると大抵ここで、

「あ、里見さん、僕のも押してください」

と彼が近寄ってくる。いいですよー、となんでもないことのように答えてあげると、他の社員が

「おまえ、いつも里見さんに押してもらってるよな」と彼に向かってふざけた様子で笑った。

その言葉に、少しどきっとする。私の考えがすべて見抜かれているのではないかと焦って、お先に失礼します、と頭を下げ、彼よりも一足はやく社内をあとにする。

廊下でエレベーターを待っていると、おつかれさまです、と背後から声がした。

彼だ。おつかれさまです、と同じことを返して振り返る。

「今日どうします? 飲みいきますか?」

おとといも飲んだばっかりか、と笑う彼を見ながら、ちょっとの時間、考えているふりをする。答えなんか決まっているのに、わざともったいぶってみる。まだ一滴も飲んでいないのに、胸がふわっと熱くなる。こういう時間ですら楽しい。

「私、今日はワインの気分です」

 

 

入社して二年目。社内でずっと隣の席だった新藤さんと飲みにいくようになったのは今年に入ってからだ。

はじめは本当に偶然だった。たまたま帰りの時間が一緒になって、エレベーターで一階まで下りている間、二人きりのその空間でわずかな沈黙に耐えられず、「あーお腹空いた」と私が独り言を呟いたことがきっかけだった。

新藤さんは、ふっと笑って、「じゃあ、なんか食い行きます?」と誘ってきた。とても自然だったし、断る理由なんてなかった。

そのあとは、今まで一切プライベートで飲みに行ったことがなかったのを帳消しにするかのように、最低でも週に一度のペースで飲みに行っている。お互いに偶然を装って、まるで待ち合わせなんてしていないふりをして。いまだにそんな小細工をしながら、誘うときの気恥ずかしさを感じないように配慮している。

 

駅前に新しくできたワインバルは週末ということもあって混雑していた。カウンターでなんとか座ることができたが、とりあえず軽く一杯飲んでから、二件目は静かなバーにでも避難しようかと席につくなり今夜の作戦を練る。

二人でひとつのメニューを手に持って眺めると、顔が近くて緊張する。
気づくと二の腕が触れ合うような距離まで寄っていて、これはまずい、と思う。これ以上はさすがに、いけない。私は椅子を座り直しながら、少しだけ彼から離れた。

新藤さんがトイレに立ったすきをついて、連絡がないか、鞄に仕舞われた携帯を確認する。まだ仕事中なのだろう、メールは来ていなかった。

「会社の先輩とご飯たべてくるね」

と、祐樹宛ての文面を打ち込み、嘘はついていないよな、となんども読み返す。

お酒も飲むけれど、飲んでくる、というよりはご飯を食べてくる、と言ったほうが印象がいいだろう。男の先輩と二人で飲んでくる、なんて絶対に言えないし、心配させるようなことは言っちゃいけない。

短い文章でも丁寧に考えている。毎回律儀に報告しているわけではないけれど、嘘さえつかなければ大丈夫だろう。嘘をつくようになったら最後、と自分で自分を戒める。

 

祐樹とは付き合って一年半になる。

結婚も考えているけれど、お互い仕事が増えて、最近は会う頻度も減ってきた。同棲しよう、という話も多忙な生活の中で気が付いたら流れてしまった。今となっては同棲なんてしてなくてよかったと思う。

去年末までは平日でも恵比須や目黒で待ち合わせをして、少しの時間でもやりくりしながら会っていたというのに、今年に入ってからは彼のほうが新しく任されたプロジェクトのために残業続きで時間が取れなくなってしまった。

もちろん嫌いになったわけでもないし、別れようなんて考えてもいない。でも、前ほど、会えなくても寂しくなくなった。週末が待ち遠しくて仕方がないということもない。わざわざ連絡して、「今週末は空いてる?」なんて聞かなくても、予定さえなければ会うことは決まっている。

新藤さんとは違う。わざわざエレベーター前で待っていなくても、誘われるようにしなくても、気軽に会うことができるのだ。

 

飲んだ帰り道、ほろ酔いの私たちは夜風に当たって少し冷まそうと、駅を通り越した先にある小さな公園に入った。息をついてベンチに腰掛ける。ワインバルのカウンターよりも離れて座っているはずなのに、周りに人がいないせいか、やけに近く感じる。赤い顔をした新藤さんが、今日は酔った、と紺色で星もない空を見上げた。

「そうはいっても、いつも結構酔ってますよね」

「俺も弱くなったからな。歳かな」

二人で笑い合いながら、ふいに出た俺、と言う言葉に、ちょっと嬉しくなる。仕事中には聞かない一人称は、一歩会社から出て仕事と無関係に会っている私にだけなにかをさらけ出してくれたみたいで、特別な響きがある。何度も聞いた今でもまだ新鮮に感じるし、まったく慣れない。

そろそろ咲きそうだな、と新藤さんはベンチの横の桜の木に目をやった。

「はやいな、まだ肌寒いのに」

そうですね、と頷き、加えて、お花見したいですね、とごく当たり前のように呟いた。自分で言っておいて驚いた。何を言っているのだろう。

「いいね、来週末には咲いてるかも」

彼は朗らかに笑い、昼間から酒飲みながらゆっくりしたいな、と冗談だか本気なんだかわからない調子で付け加えた。

週末はまずい。これ以上はさすがにいけない。仕事帰りでもなく、わざわざ休日に約束をして会うなんて、そんなのまるで、恋人みたいだ。

私はカーディガンを羽織り、少し寒くなってきましたね、と立ち上がった。一気に酔いが醒めた気がした。

 

週末は久々に祐樹に会った。映画を観にいって、そのあとは恵比須でイタリアンを食べた。
観たい映画だったわけでもないけれど、やることがなくて映画館へ行き、イタリアンも、別に食べたかったわけではないけれど、いいお店を探すのも面倒で駅近の店に決めた。

仕事の話を聞いて、愚痴をいって、それが一通り終わるとなにを話したらいいかわからなくなった。今までなぜあんなに笑っていたのだろう。新藤さんとは仕事の話もそこそこに、お酒を飲みながら読んだ本の話とか、家族の話とか、聞きたいも話したいこともたくさんあるというのに。

赤ワインに口をつけて、次の話題に頭を巡らせていると、祐樹が「あれ」と私の方を指差した。

「ネイルしてる。珍しいな」

え、と口の中で呟き、私は思わずその手を隠した。

ネイルくらいするよ、と笑いながら、内心すごく動揺した。面倒だからあまりやらない、と宣言していたというのに、たしかにここ最近はネイルをしっかり施すようになった。

祐樹のためではない。これは、新藤さんのためだ。隣り合ってメニューを見合うとき、料理を指差すその爪が寂しくないように、私はネイルをするようになったのだ。

「へぇ、そういうもんか。意外だな」

その言葉にはなんの含みもないはずなのに、非難されているような気持ちになる。ネイルをしている間も、祐樹のことではなく、新藤さんのことを考える時間になっていたのだと、皮肉にも祐樹に気づかされる。

この店のトリッパよりも会社の近くのイタリアンの方がおいしいし、牛タンの赤ワイン煮込みも先週行ったバルの肉のほうが上質だ。新藤さんのほうが物知りだし、大人だし、観たくもない映画のために時間を使うような真似はしないだろう。

だめだ、これ以上はいけない。そう思っても、考えることを止められない。

会いたい。わざと時間を合わせたり、偶然のような会い方ではなく。きちんと会いたい。少しでも奇麗に見せるためのこのネイルを、あなたに褒めてもらいたい。

「ねぇ、来週末なんだけど、」

女友達とお花見してくるね。

初めてついた嘘は我ながらうまくいったと思う。グラスで口許を隠しながら、揺れるワインに視線を落とした。

 

 

小説

Posted by ayapan