カテゴリー:小説

[小説]今年の桜はあなたとみたい

  • 2017.04.20

 立ち上がりながら隣の様子を横目で確認して、私はのんびりと帰りの支度をはじめた。 何度もデスクを整頓し、ポーチや手帳をかばんに仕舞い、忘れ物がないか、引き出しの中までしつこく確かめる。 仕事はあれほどテキパキしているのに、帰り支度は遅いんだね、と指摘されない程度にわざとらしくなく。 隣の席の彼が立ち上がって、「よし、帰ろ」と独り言を言うタイミングになって、私はようやくタイムカードを押しに行く。する […]

[小説]哲学少女

  • 2017.03.20

 行儀悪く新聞紙を片手に開きながら、もう一方の手で食べようとして失敗した。 新聞に目を落としたまま、口を開けた間抜けな姿で、一瞬の間、時が止まった。 朝は少し早めに家を出て会社近くのカフェに立ち寄り、こうしてニュース記事を読みながら食事をするのが日課である。今日はたまたま油断してしまった。 僕の手に握られた、残りあとひと口というジャーマンドッグは、見事に指の隙間からソーセージだけを落としたことで、 […]

[小説]声

  • 2017.03.08

 何故この家はこんなに寒々しく、恐ろしいのだろう。 子供時代から厭だった場所である。しかしもういい加減、十五年も経っているのだから平気だろうと思っていた。 やはり駄目だったようだ。むしろ年月を経て、より不快さが増した気がする。 門の両側には柱のように木瓜の木が生っている。長いこと水を張っていない苔むした池には、先日の長雨の名残が溜まっていて、その上を綿毛のように蚊柱が浮かんでいる。 よく祖母はここ […]

[小説]旅するブルー

  • 2017.03.03

ハロペリドール、デスパ、ハルシオン。 呪文みたい、と思いながら白い紙袋を開け、名前をいちいち口に出して手のひらにのせる。 粒の量を目で追って確認する。 いち、に、さん。 よし、だいじょうぶ。 これでもう寝られる。だいじょうぶ。 呼吸を整え、コップを握った。そして、息に合わせて瞼を閉じた。 今日も、長い夜がはじまる。   擦りガラスから差し込む月明かりに浮かぶ、ラムネみたいな薬。床はべたつ […]

[小説]アンの薬壜

  • 2017.02.06

あぁ、膝小僧に水が溜まっちまったと昔の芸者風に忌々しく云うのは、今居る中では一番の年輩である小暮花。 畳の敷かれた控室でスカートを捲し上げて膝を立て、ジャガイモみたいな骨っぽい膝小僧を大事そうに撫でている。 「花さん、今日はよしたほうがいいですよ。また倒れますよ。」 「いや、出る。」 一度云うと聞かない人だ。何度も制止したが、やはりやめない。 今日からあと一週間、この川崎公演があって、そのあとは浅 […]